2015/06/18

『絶歌』を読まないこと、あるいは少年Aのフェイクとしての「元少年A」

元酒鬼薔薇聖斗、「元少年A」の手記が出版され、話題を呼んでいる。筆者にも読んでみたいという欲望はあるが、読んでいない。単純に近隣の本屋から瞬く間に姿を消してしまったという事情もあるが、やはり被害者の御遺族が回収を要求しているという事実が大きい。そういう状況下で読むというのは、単純にあまり気持ちのいいことではない。読まない理由はそれだけである。とはいえアマゾンのレヴューやネットの書き込みが過剰なまでに増殖していることにはそれ自体、興味深いものがある。殺人者の手記が単純にエログロ的な想像力の対象になることは容易に想像できる。だがアマゾンのレヴューは大半が否定的な意見で占められている。別に全てに目を通したわけではないのだが、こういう事態そのものが社会の「元少年A」の物語への欲望を端的に示してしまっている。筆者も含め、おそらくはある時代、ある世代に思春期を送った人間にとっては、少年Aはどうしようもなく象徴的な存在なのであり、無視することがどうしてもできないのではないか。
本当は沈黙するのが最も良い。元少年Aの手記は完全に社会的に無視され、打ち捨てられることが被害者の御遺族にとっても、元少年Aにとっても最良のことではないかと思う。だが、そうはなっていない。ある種の人間にとって、元少年Aについて語るという欲望に抗することはとても困難なのである。そんな人間や社会をクズだと言って切り捨てるのは簡単だが、実際には巨額の印税が元少年Aには入るだろう。そういう事態に対して、単純に良いとか悪いとか言うのではないやり方で考えることはできないものだろうか。
色々考えてみた結果、「読まないで批評する」という方法は、この場合、意味を持ちえないだろうかと考えた。そんなものは批評でないと言われても、筆者は全く困らない(逆に読んでしまったら、その地点から引き返せなくなる)。別に筆者は批評家でありたいわけではないからだ。ただ「元少年A」について何か語っておかなければならないという切迫した気分に押されてこれを書いているだけだ。それはおそらく、元少年Aの自分語りの欲求とパラレルなものだろう。だから元少年Aに筆者の語りを否定される筋合いは無いはずである(被害者の御遺族は別だが)。
そして、結局「元少年A」はどうしようもなく凡庸な人間だ、これが筆者の結論である。こうした方向性の結論は既にロマン優光氏が述べているので、筆者が付け加えることはあまりない。敢えて付け加えるならば、高橋ツトム『地雷震』や落合尚之『罪と罰』がこうした方向性の結論をマンガという表現手段において提示していることだろうか。あるいは大塚英志と衣谷遊『リヴァイアサン』も、真向うから「少年A」を主題にしたキャラクターを描いている。そのキャラクター(かつて少年殺人者であったキャラクター)は、自分の子供が殺された時、その業を甘んじて受け入れる、「それが社会というものだ」として(記憶で書いているので、もしかしたら細部は違っているかもしれない)。
「何故、人間を殺してはいけないのか」。実際には答えは誰もが知っている。自分が、自分の愛する者たちが、殺されたくはないからである。みさき速『殺戮姫』がこの主題を扱っている。では自分が殺されても良い者、自分が愛する者などいない者は、殺人を犯す権利はあるのか。勿論、権利などはない。権利は外部から与えられるものでしかないからだ。自分や自分の愛する者を殺されてもいいという者は、もはや権利などという概念の外にいる。だから、快楽殺人者、あるいはシリアル・キラーたちは、ただただ自分の快楽のためだけに殺人を犯す。そしてそれが露見しては快楽殺人が(外部の権力によって)続けられないが故に、彼らは自分たちの犯罪をなるべく隠そうとするのである。
一方、元少年Aの殺人は、最初から過剰な自己承認欲求と結びついていた。ここに筆者は違和感を覚える。真正の快楽殺人者ならば、自分の殺人をひけらかそうなどとはしないのではないか。故に、幾ら「元少年A」が殺人に性衝動をおぼえたとしても、それは結局、思春期的、あまりに思春期的な、つまり性衝動の捌け口が確定されないという状況での「事故」だったのではないか、と思えてしまう(その意味で「元少年A」には心から同情する、同情が善意から来るものでは必ずしも限らないにしても)。勿論、「元少年A」にとっての真実においては、性衝動と殺人は切り離せないものだったのだろう。では何故、今更、手記という名の自分語りを発表せざるをえないのか。そうしないと生きていくことができないのか。それは要するに「元少年A」が徹頭徹尾フェイクだからではないか、と考える。
つまり、「元少年A」は「少年A」のフェイクであり、「少年A」は酒鬼薔薇聖斗のフェイクである。そして、酒鬼薔薇聖斗は、ネット上で本名とされている東慎一郎のフェイクである。実名報道され、ネットで素顔(だが誰の素顔だろう)を晒されたことによって少年Aには実体が無くなってしまった。あるいはそもそも「透明な存在」として酒鬼薔薇聖斗は現れたのではなかったか。自分がそうであるところのはずであるものから外れてしまった存在としてのフェイク(ロックバンド「凛と時雨」に拠るならば「テレキャスターの真実」あるいは「感覚UFO」)、それに彼は名前を与え、それに実体を与えるために殺人を犯した。だが、おそらく高橋ツトムの『地雷震』のエピソードがよく示しているように、マスメディアに拡散した「酒鬼薔薇」は逆にフェイクを増殖させるという結果しか生まなかった。だからこそ「元少年A」は「本当の私」を探し求めざるをえなくなるのである。だが、おそらくこの社会に生きるほとんどの人間が知っているように、「本当の私」など取り換え可能なものでしかない。「本当の私」は「私」というフェイクを生きることしかできない。
「本当の私」など、どこにも存在しない。思春期という「地獄の一季節」(高山文彦)は時に「本当の自分」を求めるよう仕向けてくるが、実際にはそんなものはどこにも存在しない。だが「私」の固有性(殺人を犯しながら射精してしまう固有性)も幻想のものとはどうしても思えない。だから結局、人間はその固有性とフェイクとの「間」を生きるしかない。というよりも敢えてそのように生きるべきではないか、そこにこそ(人を殺さない)倫理があるのではないかというのが筆者の考えである。たとえば、『ジギー・スターダスト』のデヴィッド・ボウイは、「ジギー」というフェイクとしての自分を、生身の身体をもって生き切った。「ロックンロール・スイサイド」をその度ごとに歌い切り、なおかつ本当にスイサイドしなかったことにボウイの功績がある。だから「元少年A」は、やはり匿名性の下に隠れるべきではない。上記したように自らの固有性とフェイク性との「間」を生きることに人間としての倫理があるとするならば、「元少年A」は、いや「元少年A」でも別にいいのだが、何らかの「固有名詞」の下に生きるべきなのではないか。つまり、暴力的なことではあるが、「元少年A」なら「元少年A」としてパブリックな場に出てくるべきではないかということである。勿論、様々な要因がそれを留めることだろう。だが被害者の遺族がそれを止めるなら別として、「元少年A」は公人として手記を出版する以上、それは自分自身の救済という意味でも避けられないのではないか。勿論、ある種のスターとして扱われることは、一方で絶対に避けなければならないのだが。これは微妙な問題である。
三島由紀夫は、フェイクとしての筋を通して自害した。村上春樹はフェイクとしての筋を通して、あの人を魅了してやまない、だが何の内容もない物語を、物語機械として紡いでいる(『アンダーグラウンド』をどう評価するかにもよるが、フェイクとしての物語がある局面では人を救うことは否定できない)。だから、「元少年A」は、自分がフェイクであることを自覚し、そのフェイクと自分自身が生きる現実との「間」を、誠実に生きるべきではないだろうか。これがある意味で暴論であることはわかっているが、やはり筆者は、「元少年A」という名で本を出す殺人者を、単なるフェイクとしか思えない、つまり、自分でやったことを自分自身の名において受け止める覚悟のない人間としか思えない。逆に言えば、その覚悟を持ちさえすれば、彼は救われるのではないか。つまり「元少年A」の殺人動機は、極めて思春期的なものであり(だからこそ普遍性を持ちえてしまう点が厄介だが)、その根本には自己承認の欲求がある。言い換えれば、「元少年A」はまさに「中二病」をこじらせているだけで、フェイクという意味では、他の同世代の大人たちと何一つ変わる部分はない。アマゾンの過剰なレヴューを見る限り、(筆者を含めて)「中二病」を患っている人々はとても、とても多いのであり、その過剰な思春期的欲望の捌け口を「元少年A」にぶつけているに過ぎない。
要するに、言いたいことは次のようなことだ。筆者自身「中二病」であることを自覚しつつ、「元少年A」は固有名において、何かを語るべきであるということ、残念ながら、それ以外に、「元少年A」の承認欲求は満たされることはない、つまり、救われることはないということである。筆者も結局は凡庸な結論にしか至れない。つまりはそれだけ「元少年A」の磁場が凡庸だということだ。
最後に笑い話を。『課長バカ一代』という漫画がある。その一話目だったか忘れたが、主人公が課長に昇進するかもしれないという場面がある。だが実際に主人公に与えられる役職は「課長補佐代理心得」とかそんなものなのである。「ホサ?」「俺はメキシコ人じゃない」というオチがつく。「元少年A」という肩書にどうしても感じてしまうのは、こういったどうしようもない悲しい笑いだ。だから筆者は被害者とその御遺族に同情すると同時に、「元少年A」にもやはり同情を感じてしまう。「酒鬼薔薇?」俺はただの殺人鬼じゃない、もっとすごいものだ、そう考えた途端、誰もが凡庸な殺人者になる。連合赤軍を、オウム真理教を思い出してみればいい。死は勿論、忌避すべきものだが、同時に救いようもないほど凡庸なものである。だって誰もが平等に死を迎えるのだから。だから被害者をいくら愛していたからといって、「元少年A」のやったことは、所詮凡庸な想像力の範疇に留まるものでしかない。だが逆説的ではあるが、それを認めることこそ、凡庸な人間の仲間入りを果たすことこそが、「元少年A」の救いになるのではないだろうか。

御遺族からクレーム等あれば即刻この記事は削除致します。

2013/09/21

少年マンガに問い掛ける者 『ワンピース フィルムZ』








『ワンピース フィルムZ』をDVDで観た。筆者は特にワンピースの大ファンではないのだが、パートナーが大ファンなのだ。前作『ストロング・ワールド』は劇場で観たが、あまり納得のいく出来ではなかった(ちなみにパニック障害を発症したという嫌な思い出もある)。だが今回は前作よりも格段に作品としての奥行きが増していた。
 重要な点は二つある。一つはルフィが最後にラスボスであるZに勝てることの伏線がきちんと張ってあることだ。前作ではゴールド・ロジャーと渡り合った金獅子のシキにルフィがなんとなく勝ってしまっていた感があるが、今作では元海軍大将Zにルフィが渡りあえる理由がきちんと説明されている。簡単にいえば、Zは老体で特に肺が弱っていることが明示されている(何度かZが吸入器を口に含むシーンがある)。そもそも出だしからして、Zは海を漂っているところをルフィたちに助けられ、チョッパーの介抱を受けているのである。だからこそルフィは最終的にZに勝てるのだ。
 もう一つは、上記よりはるかに重要なのだが、Zがキャラクターとして非常に魅力的であるという点である。これは単にキャラが立っているという次元の問題ではない。ある意味でZのキャラクター造詣は凡庸ですらある(元・敵の大将、腕についたデカイ武器など)。それでもZが魅力的であると(筆者には)感じられるのは、Zがいわば「問いかける者」だからである。Zはルフィに問い掛ける。夢を持つことが、海賊になることが、ワンピースを追うことが、大きなうねりとなり大海賊時代が到来した。一方で、そのために多くの人々が傷ついている。海賊であることへの問い掛けは、別の場所でもなされていたと思うが、「夢を持つ」という少年マンガの至上命題自体が、人を傷つけるものとして疑問に付されているのである。この点が必ずしも深められているとは言い難いものの、この「問い掛ける者」としてのZの存在は、映画一本で消費してしまうのは勿体なく思えるほど魅力的である。勿論、だからといって新世界全部を一度に壊滅させてしまおうとするZの行動は肯定できるものではないし、Zを狂信する者たちについては尚更である。だからルフィには戦う理由もきちんとある。こうした物語構造が、今作に前作とは比較にならない奥行きを与えている。
 ではルフィの答えは何か。これがまた少年マンガの王道パターンであり、苦笑を禁じ得ないといえばそうなのだが、「俺はやりたいようにやる」というシンプルなものだ(これは勿論、人を無駄に傷つけることのない範囲で、ということだが)。これに対してZも「俺もやりたいようにやった、だからもういい」(実際の細かいセリフは忘れた)と答える。要するにこれは番長同士が土手でケンカした後で、夕日を見ながら、「お前やるな」「フ、お前もな」というアレである。これが手垢にまみれた結論であることは言うまでもないが、ここに少年マンガというジャンルのモラルを見ることもまた可能だろう。
 この映画の最後にもう一人の「問い掛ける者」が登場する。ルフィたちが寄港していたドッグの少年である。「ヒーローになりたい、海賊王か、海軍大将か、どっちがいいかな?」と少年は訊く、「お前には同じに見えるのか?」(実際のセリフはもう少し違うかもしれない)と誰かが答える(ゾロかサンジだったと思うが)。この映画の最も感動的なシーンである。そしてZもまた幼い頃にヒーローになりたかった少年だったことが示され、映画は終わる。
 願わくば、次作以降の映画においてもマンガ本編においてもZのような多くの「問い掛ける者」が登場せんことを。


2013/08/17

美しい夢(欠けたもの) 映画『風立ちぬ』







 ここにあるのは美しい夢である。それ以上でも、それ以下でもない。勿論アニメとしては申し分ない出来である。だがそれだけだ。
 飛行機の設計士を夢見、それを実現させた主人公。結核のヒロイン。彼女は、主人公と暮らすために、サナトリウムでの結核治療を中断し、山を降りる。だが、死期が近づくと主人公の前から姿を消す。彼女の死の場面は描かれない。彼女は自分の美しい部分しか主人公に見て欲しくなかったのだという。このエピソードはこの映画全体を象徴するものだ。
 そして主人公が作るのはただの飛行機ではない。戦闘機である。だがそれが人を殺す場面は描かれない。主人公はただ美しい飛行機が作りたいだけだという。それはそうだろう。だがそれが否応なく人殺しの道具になってしまうという点に、主人公は、またこの映画自体が、ほとんど拘泥することがない。主人公の友人が、俺たちが作るの人殺しの道具ではないと言ったところで、それは言い訳にしか聞こえない(実際、人殺しの道具なのだから)。
 映画の終盤、主人公は夢の中で、イタリア人設計家に君の十年はどうだったかと聞かれ、後半はズタズタでしたと答える(セリフは記憶によるので間違っているかもしれないが)。ならばそのズタズタの時間こそが描かれるべきである。そうでなければキャッチコピーの「生きねば」には何のリアリティも生じない。
 美し過ぎる夢には何かが欠けている。宮崎駿の作品がその魅力ゆえにある種の呪縛をその受容者に与えてしまうことと、それはパラレルである。宮崎駿は自分のファンが、いつかは自分の世界から抜け出し、大人になることを望んでいるだろう。だが、あまりに美しい夢から逃れるのは容易ではない。この作品が図らずも示してしまっているのは、そういうことだ。
 また特筆すべきは、この作品の主人公が成年の男性である点だ。これは宮崎駿の作品では珍しい。そして主人公の上司は、明らかに宮崎駿自身である。そして主人公の声優が『エヴァンゲリオン』の庵野監督であることを考えれば、この作品は宮崎駿の後に続く世代へのメッセージと受けとめうる。そこには当然、息子の宮崎吾郎も含まれているはずだ。そういう意味で、この作品の主人公は、宮崎駿の理想像(堀越二郎)であると共に理想の息子像でもありうる。だが、そこで示されるのは、誠実だが自分の仕事(というか好きなもの)以外には無頓着な、ある意味で理想の「おたく」像なのであることは、何か皮肉なものを感じさせる(確かに庵野監督は言うまでもなく「おたく」だが、彼がそのことに拘泥していることはエヴァンゲリオン劇場版の最終話[勿論、古い方]を見れば明らかだ)。
 私たちの国が他国の戦争に参加することを容認することを、他ならぬ私たち自身が選択しようとしてしまっているこの時期に、何故、宮崎駿はここまで美しい夢を見られるのか(この意味で、この映画が軍国主義映画だというどこかの国の批判は的外れである、そうでないことこそが問題なのだ)。戦争の時代を必死に生きた人々を描くこと自体は間違っていない。だが、主人公の知らないところで、主人公の飛行機は誰かを殺すだろう。そう遠くない時期、私たちの誰かが、私たちの知らないところで、他国の誰かを殺すだろう。おそらくは。
 
 
 

2013/05/14

分裂した自己の偽物の完成形 凛として時雨『i’mperfect』






凛として時雨『i’mperfectSony Music Associated Records Inc., 2013.

 凛として時雨の音楽は2000年代以降に登場した日本のロック・ミュージックの中でも最高の水準にあるものだろう。このように記した時、書き手の中には逡巡が生じる。それは凛として時雨の中心人物であるTKが、歌詞の中で繰り返し自らをフェイクだと述べ、フェイクである自らが評価されることに対する苛立ちを隠さないからである。分裂した自己、フェイクとしての自分、それに対する逡巡と苛立ちは、凛として時雨の音楽の主題の一つと言っていい。

その完成形が六作目、メジャーデビュー後では三作目の本作である。このことはタイトルに明瞭に示されている。つまり、不完全imperfectである(フェイクである、分裂している)自己の完成形I’m perfectなのである(こうした言葉遊び的側面はTKの歌詞の大きな魅力の一つである)。⑧「キミトオク」では直截にこう歌われている。

偽物の完成形 偽物に勘づいて
大体嘘だろう? 幻を抱きしめて
これが僕の描かれた命だから
何をしたってさ 満足だろ

あるいは、

偽物の完成形 偽物に勘づいて
お前も嘘だろう? 憧れにしがみついて
imperfectな異常 描かれた命だから

 音楽的にも本作は、彼らの完成形と言えるかもしれない。かもしれない、というのは実際のところ、凛として時雨の音楽は常に一貫しているからである。彼らの音楽の基本的な構造は、複雑な歌詞、フレーズ、リズム等々の断片的な要素を、多くの場合、ほとんとキャッチーと言ってもいいサビ部分に一気に落とし込むこというものだ(だからこそ驚くべきことにアニメの主題歌としても成立する[②abnormalize])。つまり、自己の分裂から生じる激烈な感情、衝動、叫びは、ある種の定型に落とし込まれることで、無理やりに昇華される。そこに凛として時雨の音楽のカタルシスがあるのであり、ロック・ミュージックとしての強度がある。
 以上のことはファースト・アルバム『#4』から本作までの全ての作品に当てはまる。本作がその完成形である理由は、彼ら自身がそう宣言していることに加えて、上記の構造が孕むあやうさ(断片化)と昇華(全体化)のバランスがある種の飽和点に達している点にある。全体としては、これまでになくまとまりがあり、ポップであるとさえ言われているが、断片的には恐ろしいほど複雑でマニアックかつ奥深いのである。さらにおそらく言えることは、これまで三者三様の個性を強く押し出していた彼らの音楽が、凛として時雨として一つになっているということだ。
分裂した自己、フェイクとしての自己というテーマは、TK345のダブル・ヴォーカルというスタイルで、ファースト・アルバム『#4』から音楽的構造として組み込まれている。『#4』では彼らの代表曲の一つ、②「テレキャスターの真実」においてこのテーマが明瞭に扱われている。

狂いながらも嘘をつき続ける人がここにいる
鋭い刃物のようなスタンスでここに生きている
僕は笑ってる ヤツは笑ってる
鋭い顔を裏に隠しながら僕は笑ってる

「僕」と「ヤツ」という自己の二重化、そして「レスポールの残像」としての「テレキャスター」(どちらもエレキ・ギターの種類)

暗闇の中に潜むテレキャスター
君が見てるのはレスポールの残像
鮮やかな夕景Style The密かなる行為 君が見てるのはレスポールの残像
テレキャスターの真実はレスポールの残像

TK345の掛け合いとなるこのサビ部分は圧巻である。ここで歌われているのは、テレキャスター(TKが一貫して使用しているギターの種類であり、彼の詩のキーワードの一つ)という自身の「真実」そのものが、レスポールの「残像」に過ぎないということである。つまり、TKにとって「真実」は初めから「残像」として二重化されたものとして、つまるところフェイクとしてある。だからこそこの曲の最後に来るのは行き場の無い同語反復なのである。

絶望の真実は絶望の真実

 以後、TKは分裂する自己(フェイクとしての自己)とその間隔に介入してくる他者との関係を巡って逡巡を繰り返していくことになる。それは時に他者への暴力的な苛立ちとなっても表れている。メジャーデビュー前の三曲入りシングル『Telecastic fake show』ではフェイクである自分への嫌悪、そこに過剰に自己投影してくる他者(ある種のファンもそこに含まれてしまうだろう)への嫌悪が非常に直接的に、暴力的なサウンドと共に歌われる。①「Telecastic fake show」では、

君の自由にもう飽きて 歌う事も無くなって
犯罪的な僕と彼の体内に TIME REVOLUTION 視界は狭く無くなって

狂わされた存在に いつか目を覚まさないで
僕も知らない 不気味な君達の投影に
僕を知らない 愉快な君達が居なくなるように

曖昧なCollaborate show Hysteric無意味現象
感情性の指に Mirror Letterを刺した
ユメノサカサマニ

②「Re:automation」では、

決められたRe:automation 意味不明のremaking / dancing
悲しそうなディレイの上で 楽しそうに歌わないで
you are dancing / kill me

と歌われる。「無気味な君達の投影」、「曖昧なCollaborate show」と「Hysteric 無意味現象」、こういった言葉に他者への嫌悪を見ることは容易なのだが、TKの歌詞の場合に厄介なのは、既に述べてきたような分裂した自己の問題があるせいで、他者への嫌悪がフェイクである自己に安易に自己投影してくる他者への嫌悪である点にある。ようするに、他者への嫌悪は自己への嫌悪の裏返しなのである。これについての捉え方は様々だろうが、凛として時雨の音楽が、単なる他者動員の音楽ではないということは言えるだろう。単に皆で集まって楽しくなる音楽ではないのである(ライヴではその辺りをピエール中野のお笑いトークが補っているわけだが)。そこに批評性を見て取ることは可能である。というよりも、TKは自己への過剰な批評性に苦しめられているのではないかとさえ思えてくる。そして凛として時雨の音楽を真摯に聴こうとするとどうしてもこの自己投影の問題に突きあたってしまう。

 さて『i’mperfect』だがTKの態度は基本的に変わっていない。分裂した自己と自己の間隔に介入してくる(憧れ、自己投影してくる)他者への苛立ちは保ちつつも、それが自己のフェイク性と表裏である以上、全否定することはできない。この点は①「Beautiful Circus」に強く示されている。TKは、自分たちの音楽が他者を狂わせてしまう錯覚のサーカスだというが、そこでは他者との奇妙な共犯関係も示唆されている。

美しくなんてないのに君を狂わせちゃうなら
美しくなんてないのに光がもし見えるなら
錯覚のサーカス
このままでいい? その気にさせて
君を狂わす 錯覚のサーカス

(・・・・・・)
追いかけたものがいつの間にかいなくなって
空っぽになったから僕に入り込んで
Sadistic after me

(・・・・・・)
今すぐ殺せないのは君たちが欲しがるから
美しくなんてないのに光がもし見えるなら
シャッターを切って僕はどう見える?秘密にするから
君は今でも錯覚の中 その気にさせる言葉の中で
僕を見せたら錯覚のサーカス

一方、③「Metamorphose」では、フェイクとしての自分を放棄するかのような歌詞も見える。

僕はIを脱いだ
イワユルノンフィクション

この辺りが『I’mperfect』におけるTKの新しい局面なのかもしれない。そして自己投影してくる他者(あるいは分裂した自己)にも「本当の君になればいいよ」と呼びかけている。しかし、「本当の君」など果たして存在するのか。TKにおいては、分裂したフェイクとしての自己こそが「本当の自己」なのではないのか。だから⑤「Sitai miss me」ではやはりフェイクとしての自己に拘泥し、成功によって他者に満たされることへ違和感(前作『still a Sigure virgin?』でもこのテーマは歌われていた)が表明されてしまう。

ベルトコンベアに載せられたまま
降りられなくなって「夢が叶いました」

(・・・・・・)
fly to fake Sitai miss me dive to fake Sitai miss me
fake to fake Sitai miss me fake to fake Sitai kill me
君の死体が記憶に 見つけられないなら
求めてたものなど初めからなかったりして
全てを「今」のせいにして

さらに⑦「MONSTER」では「完成系の偽物になって」と歌われ、前述した⑧「キミトオク」で「偽物の完成形」が宣言される。そこではやはり他者に満たされてしまうことへの逡巡も歌われている。

満たされて乱され無い様に 不安が欲しくなって
憧れの眼差しなんかに騙されたくないよ

そして⑧「キミトオク」と共に本作のハイライトはラストの⑨「Missing ling」である。タイトルは勿論missing ring のもじりなのだが、Lingとは凛として時雨のアルファベット表記、Ling Tosite SigureLingである。要するにこの曲は、失われた凛として時雨についての曲であると推測できる。

探し物を失くした ねえ 今だけ?
僕を破裂させて飛び散らしていいよ
例えばその欠片が 痛いとか 痛いとか 叫んだら
僕の魔法を使って良いよ
記憶がガラスに変わっていく

他者によって満たされ過ぎた自分(偽物の完成形)はバラバラに飛び散るしかない。そうしたら今度は他者自身が、自分のフェイクとなってくれればいいと、TKは歌うのである。そしてこの曲は「偽物の完成形」が一つの終りであることを告げている。

例えば僕の仕組みが変わって
オレンジが息をする冬の匂いに
刺さったり 時を戻せなくなったら
優しく終りを告げて

しかし記憶は残る。

いつかはこの声も連れ去られて
誰かを満たせる夢が終わるのさ
続きはあの場所と僕の中に
the endless

 「偽物の完成形」に到達することで、凛として時雨は明らかに一つのターニングポイントを迎えた。彼らはどうなっていくのか。一ファンとしては見つめているしかない。ただフェイクに拘泥するTKの態度は表現者として非常に誠実であると思う。このフェイクとしての自己という問題はロック・ミュージックが根本的に抱える問題(たとえばデヴィッド・ボウイ)であると共に、日本近代が抱える問題でもある(たとえば三島由紀夫)。凛として時雨の問題は思いの他、射程の広いものなのである。

2013/05/10

死と学校の関係 映画『悪の教典』









  サイコ・キラーの教師が生徒を次々に殺していく。それだけといえばそれだけの映画である。B級映画といえばこの上なくB級映画だが、その即物的な在り方にこの映画の魅力がある。
 学校とは、無限ではないにしても限りなく引き伸ばされた、あるいは果てしなく微文化された、通過儀礼の場である。通過儀礼とは参加者が仮の死を体験することで大人になる儀式だとすれば、学校と死が結びつくのは必然的である。たとえば学校の怪談、学校の七不思議のように、学校には何かしら死の匂いが漂っている。とすれば通過儀礼の執行者たるサイコ・キラーが学校に紛れ込むのも当然のことである。小説でも映画でも主人公のサイコ・キラーが何故、教師になったのか、いまいち説明されきれていないが、こう考えればそれなりに納得がいく。そしてクラスの生徒全員を殺し終えた(と思った)後、「卒業おめでとう!」と主人公が言うのも当然のことなのである。何故なら、通過儀礼の先に待っているのは大人になることか、さもなくば死なのだから。
 小説も魅力的だったが、映画の場合、限られた時間の枠の中で如何にこの学校と死の関係を表現するかにその強度はかかっている。そしてそれはかなりの程度成功している。小説にあった細部はかなり省かれ、ストーリーや人間関係も単純化されているが、そんなことは問題ではない。細部を知りたい人は原作を読めばいいのだから。とにかくただ単に人が殺されていく。それによって学校という場に潜在する死の匂いを顕在化させている点にこの映画の魅力がある。断っておけば、ここでいう死の匂いとは濃厚なものではなく、限りなく薄く軽いものだ。そこには何の意味もない。殺す理由も殺される理由も、大してあるわけではない。死は無意味なのだ。だから実のところ、サイコ・キラーが同じサイコ・キラーの友人と殺人を行っていたエピソードや、その友人(やはり主人公に殺された)が、悪夢となって主人公に憑りつき、主人公の銃と一体化する設定などは特に必要なかったのではないかと思う。主人公と関係を持った女子生徒が落下するシーンがスローになる部分や、ところどころにおりこまれるブラック・ジョークも同様だが、個人的に東大=to dieにはしてやられた。そしてエンディングテーマはELPの「悪の教典」であって欲しかった。

2013/03/15

試訳「ハレルヤ」(レナード・コーエン/ジェフ・バックリィ)


秘密の和音があったらしい
ダヴィデが奏でて神を喜ばせたんだ
でも音楽なんて本当はどうでもいいんだろう?
それはこんなふうに進行する
四度、五度
マイナーで下がって、メジャーで上がる
慌てた王様が作ったハレルヤ

君の信仰は強かったが、どうしても証拠が欲しかった
君は彼女が屋根で入浴するのを目にして
彼女の美しさと月の光に打ちのめされた
そして彼女は君を台所の椅子に縛りつけ
王冠を叩き壊し、君の髪を切ってしまった
そうやって君の口からハレルヤを引き出したんだ

ベイビー僕はここに来たことがある
この部屋を見たことがあるし、この床を歩いたことがある(わかるだろう)
君を知る前、僕はずっと一人で生きていた
そして僕は大理石のアーチに君の旗が掲げられているのを見た
でも愛は勝利のマーチなんかじゃない
冷たく、壊れたハレルヤだ

かつて君は教えてくれたことがある
心の底で本当は何が起こっているのかを
でも今は決してそれを教えてはくれないんだろう?
でもおぼえておいてほしい、僕が君の中に入った時
聖霊もまた入っていったんだ
僕らの吐く一息一息がハレルヤだった

多分、神は天上にいらっしゃるのだろう
でも僕が愛から学んだのは
君の気を惹いた奴をどうやって撃ち抜くかだけだった
君が夜中に耳にするのは泣き声じゃない
光を目にした人間でもない
冷たく、壊れたハレルヤだ

ハレルヤ

2013/02/12

待つこと、孤独の肯定 デル・ジベット『Violetter Ball』

 
 後にヴィジュアル系と呼ばれることになる音楽の一つの源流であるバンドの1985年10月のデビュー作(参照しているのは93年のCD再発版)。バンド名はドイツ語で「麝香」、アルバムタイトルは同じくドイツ語で「紫色の舞踏会」を意味する。
 バンド結成は84年11月、結成一年未満ということもあり、音はかなり不安定である。全体的に靄がかかったようなエコーの深いサウンドで、特にヴォーカルのISSAYの歌は不安定過ぎて、時折聞き取れない程である。
 バックの演奏技術は高いものの、未だまとまりに欠ける印象は否めない。コーラスやエコー、ディレイを多用し、そこにキーボードが重なってくる音像は、かなり80年代という時代を感じさせる、端的に言えばニューウェーヴである。だが要所要所でマニアックなアレンジ(変拍子など)が施されており、面白い展開も頻出する。その辺りに単なるポップ・ミュージックに収まろうとはしない気概を感じることができる。
 実際、曲によってはかなりポップであり、ドイツ語の硬質なバンド名の印象とは随分異なっている。こうした様々な面でのちぐはぐさは後々デル・ジベットが長く引きずって行くことになる性質であり、逆に言えば、この点がデル・ジベットというバンドの不思議な魅力であるとも言える。
 歌詞及びテーマの部分では、ISSAYの個性が炸裂している。一曲目からして「FATHER COMPLEX」である。一曲目にふさわしい、ミステリーゾーンへ導かれるようなイントロのコード進行とキーボード、なのに「ファザー・コンプレックス」なのである。サビに至っては、「Father Complex つきまとってる/いつも/この俺に(Oh)」である。ここまで率直にファザコンをテーマにした曲というのは珍しいのではないだろうか。しかも繰り返すが一曲目に、である。
 この曲には「空に浮かぶ気分はシャボン玉」という一節があるが、浮遊というモチーフ、存在の希薄さ、そこから生じる孤独と内省というテーマはアルバムに一貫している。
 ②「Lunatic Dancin'」では「ただあなだけ宇宙に舞う」と非日常的な瞑想的浮遊感が歌われ、③「雨の中のパレードでは「OK. Lady, すてきなパーティ楽しめばいい/俺はただ雨の中を歩きたいだけ」と空騒ぎへの嫌悪と孤独が歌われる。
 パーティへの嫌悪は次の④「猫の目をして這いずるな」で「うそつきだらけ Party Tonight/カクテル飲み飲み微笑む/子豚のようなSexy Girl 僕はあんたが大嫌い!」と更に率直に表明される。そして「僕はただ飛びたいだけ」であり、女の子には「ここでお別れ」と告げる。
 ⑧「キスミープリーズ」も同様で「しらじらしいけど Dancin'/茶化しただけさ/無理して笑ってDancin'/その場しのぎさ」「嘘つきながらもDancin'/まだまだ寒い」と歌い、80年代的な狂騒を皮肉り、そこから背を向ける。
 そして自閉する。⑤「Der Rhein」(ドイツ語で「ライン川」、このタイトルの意図はよくわからない)では、部屋でくるくるまわり続ける様が、ヨーロッパ歌謡的演奏に乗せて歌われる。「まわる まわる 部屋は青いままで/まわる まわる 肌は透けたままで/まわる まわる 霧は深いままで/まわる まわる 森はまつげふせて/まわる まわる 星が月が時を超える」。そして「I'm so happy boys」とうそぶくのである。
 「Der Rhein」は本アルバムのクライマックスの一つだが、もう一つのクライマックスは⑨「待つ歌」である。「Der Rhein」で歌われた行き場のない孤独は、「待つ」という行為に置き換えられることによって不思議な透明感(存在の希薄さの裏返しである)を伴った希望と肯定へと反転させられる。透明感のあるピアノの中で「人は僕のわきを通りすぎた/風も僕のわきを通りすぎた」と歌われるが、それでもサビでは「I wait for you」という言葉がリフレインされる。孤独のギリギリの肯定、これがデル・ジベットの、ISSAYの重要なテーマであり、このテーマは以後も追及されることになる。
 CD版で付け加えられた⑩「Floatin' Song」(浮かぶ歌)は、やはり浮遊と孤独の肯定がテーマである。「FLOATIN' SONG/聴こえてくる/FLOATIN' LOVE 聴こえるまで歌う」、孤独であっても、浮遊する歌、消えて行ってしまいそうな歌であっても、誰かに(その誰かは結局いないとしても)聴こえるまで歌う。ただそうする(「時々歌う 時々叫ぶ」)。それがギリギリの孤独の肯定なのである。
 いつかは誰かが訪れるのか、誰も訪れないかもしれない。そうだとしても、待つという行為自体に(たとえそれが限りなく消極的であるとしても)孤独の肯定の端緒がある。ISSAYとデル・ジベットはそこから歩きはじめる。