2013/05/14

分裂した自己の偽物の完成形 凛として時雨『i’mperfect』






凛として時雨『i’mperfectSony Music Associated Records Inc., 2013.

 凛として時雨の音楽は2000年代以降に登場した日本のロック・ミュージックの中でも最高の水準にあるものだろう。このように記した時、書き手の中には逡巡が生じる。それは凛として時雨の中心人物であるTKが、歌詞の中で繰り返し自らをフェイクだと述べ、フェイクである自らが評価されることに対する苛立ちを隠さないからである。分裂した自己、フェイクとしての自分、それに対する逡巡と苛立ちは、凛として時雨の音楽の主題の一つと言っていい。

その完成形が六作目、メジャーデビュー後では三作目の本作である。このことはタイトルに明瞭に示されている。つまり、不完全imperfectである(フェイクである、分裂している)自己の完成形I’m perfectなのである(こうした言葉遊び的側面はTKの歌詞の大きな魅力の一つである)。⑧「キミトオク」では直截にこう歌われている。

偽物の完成形 偽物に勘づいて
大体嘘だろう? 幻を抱きしめて
これが僕の描かれた命だから
何をしたってさ 満足だろ

あるいは、

偽物の完成形 偽物に勘づいて
お前も嘘だろう? 憧れにしがみついて
imperfectな異常 描かれた命だから

 音楽的にも本作は、彼らの完成形と言えるかもしれない。かもしれない、というのは実際のところ、凛として時雨の音楽は常に一貫しているからである。彼らの音楽の基本的な構造は、複雑な歌詞、フレーズ、リズム等々の断片的な要素を、多くの場合、ほとんとキャッチーと言ってもいいサビ部分に一気に落とし込むこというものだ(だからこそ驚くべきことにアニメの主題歌としても成立する[②abnormalize])。つまり、自己の分裂から生じる激烈な感情、衝動、叫びは、ある種の定型に落とし込まれることで、無理やりに昇華される。そこに凛として時雨の音楽のカタルシスがあるのであり、ロック・ミュージックとしての強度がある。
 以上のことはファースト・アルバム『#4』から本作までの全ての作品に当てはまる。本作がその完成形である理由は、彼ら自身がそう宣言していることに加えて、上記の構造が孕むあやうさ(断片化)と昇華(全体化)のバランスがある種の飽和点に達している点にある。全体としては、これまでになくまとまりがあり、ポップであるとさえ言われているが、断片的には恐ろしいほど複雑でマニアックかつ奥深いのである。さらにおそらく言えることは、これまで三者三様の個性を強く押し出していた彼らの音楽が、凛として時雨として一つになっているということだ。
分裂した自己、フェイクとしての自己というテーマは、TK345のダブル・ヴォーカルというスタイルで、ファースト・アルバム『#4』から音楽的構造として組み込まれている。『#4』では彼らの代表曲の一つ、②「テレキャスターの真実」においてこのテーマが明瞭に扱われている。

狂いながらも嘘をつき続ける人がここにいる
鋭い刃物のようなスタンスでここに生きている
僕は笑ってる ヤツは笑ってる
鋭い顔を裏に隠しながら僕は笑ってる

「僕」と「ヤツ」という自己の二重化、そして「レスポールの残像」としての「テレキャスター」(どちらもエレキ・ギターの種類)

暗闇の中に潜むテレキャスター
君が見てるのはレスポールの残像
鮮やかな夕景Style The密かなる行為 君が見てるのはレスポールの残像
テレキャスターの真実はレスポールの残像

TK345の掛け合いとなるこのサビ部分は圧巻である。ここで歌われているのは、テレキャスター(TKが一貫して使用しているギターの種類であり、彼の詩のキーワードの一つ)という自身の「真実」そのものが、レスポールの「残像」に過ぎないということである。つまり、TKにとって「真実」は初めから「残像」として二重化されたものとして、つまるところフェイクとしてある。だからこそこの曲の最後に来るのは行き場の無い同語反復なのである。

絶望の真実は絶望の真実

 以後、TKは分裂する自己(フェイクとしての自己)とその間隔に介入してくる他者との関係を巡って逡巡を繰り返していくことになる。それは時に他者への暴力的な苛立ちとなっても表れている。メジャーデビュー前の三曲入りシングル『Telecastic fake show』ではフェイクである自分への嫌悪、そこに過剰に自己投影してくる他者(ある種のファンもそこに含まれてしまうだろう)への嫌悪が非常に直接的に、暴力的なサウンドと共に歌われる。①「Telecastic fake show」では、

君の自由にもう飽きて 歌う事も無くなって
犯罪的な僕と彼の体内に TIME REVOLUTION 視界は狭く無くなって

狂わされた存在に いつか目を覚まさないで
僕も知らない 不気味な君達の投影に
僕を知らない 愉快な君達が居なくなるように

曖昧なCollaborate show Hysteric無意味現象
感情性の指に Mirror Letterを刺した
ユメノサカサマニ

②「Re:automation」では、

決められたRe:automation 意味不明のremaking / dancing
悲しそうなディレイの上で 楽しそうに歌わないで
you are dancing / kill me

と歌われる。「無気味な君達の投影」、「曖昧なCollaborate show」と「Hysteric 無意味現象」、こういった言葉に他者への嫌悪を見ることは容易なのだが、TKの歌詞の場合に厄介なのは、既に述べてきたような分裂した自己の問題があるせいで、他者への嫌悪がフェイクである自己に安易に自己投影してくる他者への嫌悪である点にある。ようするに、他者への嫌悪は自己への嫌悪の裏返しなのである。これについての捉え方は様々だろうが、凛として時雨の音楽が、単なる他者動員の音楽ではないということは言えるだろう。単に皆で集まって楽しくなる音楽ではないのである(ライヴではその辺りをピエール中野のお笑いトークが補っているわけだが)。そこに批評性を見て取ることは可能である。というよりも、TKは自己への過剰な批評性に苦しめられているのではないかとさえ思えてくる。そして凛として時雨の音楽を真摯に聴こうとするとどうしてもこの自己投影の問題に突きあたってしまう。

 さて『i’mperfect』だがTKの態度は基本的に変わっていない。分裂した自己と自己の間隔に介入してくる(憧れ、自己投影してくる)他者への苛立ちは保ちつつも、それが自己のフェイク性と表裏である以上、全否定することはできない。この点は①「Beautiful Circus」に強く示されている。TKは、自分たちの音楽が他者を狂わせてしまう錯覚のサーカスだというが、そこでは他者との奇妙な共犯関係も示唆されている。

美しくなんてないのに君を狂わせちゃうなら
美しくなんてないのに光がもし見えるなら
錯覚のサーカス
このままでいい? その気にさせて
君を狂わす 錯覚のサーカス

(・・・・・・)
追いかけたものがいつの間にかいなくなって
空っぽになったから僕に入り込んで
Sadistic after me

(・・・・・・)
今すぐ殺せないのは君たちが欲しがるから
美しくなんてないのに光がもし見えるなら
シャッターを切って僕はどう見える?秘密にするから
君は今でも錯覚の中 その気にさせる言葉の中で
僕を見せたら錯覚のサーカス

一方、③「Metamorphose」では、フェイクとしての自分を放棄するかのような歌詞も見える。

僕はIを脱いだ
イワユルノンフィクション

この辺りが『I’mperfect』におけるTKの新しい局面なのかもしれない。そして自己投影してくる他者(あるいは分裂した自己)にも「本当の君になればいいよ」と呼びかけている。しかし、「本当の君」など果たして存在するのか。TKにおいては、分裂したフェイクとしての自己こそが「本当の自己」なのではないのか。だから⑤「Sitai miss me」ではやはりフェイクとしての自己に拘泥し、成功によって他者に満たされることへ違和感(前作『still a Sigure virgin?』でもこのテーマは歌われていた)が表明されてしまう。

ベルトコンベアに載せられたまま
降りられなくなって「夢が叶いました」

(・・・・・・)
fly to fake Sitai miss me dive to fake Sitai miss me
fake to fake Sitai miss me fake to fake Sitai kill me
君の死体が記憶に 見つけられないなら
求めてたものなど初めからなかったりして
全てを「今」のせいにして

さらに⑦「MONSTER」では「完成系の偽物になって」と歌われ、前述した⑧「キミトオク」で「偽物の完成形」が宣言される。そこではやはり他者に満たされてしまうことへの逡巡も歌われている。

満たされて乱され無い様に 不安が欲しくなって
憧れの眼差しなんかに騙されたくないよ

そして⑧「キミトオク」と共に本作のハイライトはラストの⑨「Missing ling」である。タイトルは勿論missing ring のもじりなのだが、Lingとは凛として時雨のアルファベット表記、Ling Tosite SigureLingである。要するにこの曲は、失われた凛として時雨についての曲であると推測できる。

探し物を失くした ねえ 今だけ?
僕を破裂させて飛び散らしていいよ
例えばその欠片が 痛いとか 痛いとか 叫んだら
僕の魔法を使って良いよ
記憶がガラスに変わっていく

他者によって満たされ過ぎた自分(偽物の完成形)はバラバラに飛び散るしかない。そうしたら今度は他者自身が、自分のフェイクとなってくれればいいと、TKは歌うのである。そしてこの曲は「偽物の完成形」が一つの終りであることを告げている。

例えば僕の仕組みが変わって
オレンジが息をする冬の匂いに
刺さったり 時を戻せなくなったら
優しく終りを告げて

しかし記憶は残る。

いつかはこの声も連れ去られて
誰かを満たせる夢が終わるのさ
続きはあの場所と僕の中に
the endless

 「偽物の完成形」に到達することで、凛として時雨は明らかに一つのターニングポイントを迎えた。彼らはどうなっていくのか。一ファンとしては見つめているしかない。ただフェイクに拘泥するTKの態度は表現者として非常に誠実であると思う。このフェイクとしての自己という問題はロック・ミュージックが根本的に抱える問題(たとえばデヴィッド・ボウイ)であると共に、日本近代が抱える問題でもある(たとえば三島由紀夫)。凛として時雨の問題は思いの他、射程の広いものなのである。

2013/05/10

死と学校の関係 映画『悪の教典』









  サイコ・キラーの教師が生徒を次々に殺していく。それだけといえばそれだけの映画である。B級映画といえばこの上なくB級映画だが、その即物的な在り方にこの映画の魅力がある。
 学校とは、無限ではないにしても限りなく引き伸ばされた、あるいは果てしなく微文化された、通過儀礼の場である。通過儀礼とは参加者が仮の死を体験することで大人になる儀式だとすれば、学校と死が結びつくのは必然的である。たとえば学校の怪談、学校の七不思議のように、学校には何かしら死の匂いが漂っている。とすれば通過儀礼の執行者たるサイコ・キラーが学校に紛れ込むのも当然のことである。小説でも映画でも主人公のサイコ・キラーが何故、教師になったのか、いまいち説明されきれていないが、こう考えればそれなりに納得がいく。そしてクラスの生徒全員を殺し終えた(と思った)後、「卒業おめでとう!」と主人公が言うのも当然のことなのである。何故なら、通過儀礼の先に待っているのは大人になることか、さもなくば死なのだから。
 小説も魅力的だったが、映画の場合、限られた時間の枠の中で如何にこの学校と死の関係を表現するかにその強度はかかっている。そしてそれはかなりの程度成功している。小説にあった細部はかなり省かれ、ストーリーや人間関係も単純化されているが、そんなことは問題ではない。細部を知りたい人は原作を読めばいいのだから。とにかくただ単に人が殺されていく。それによって学校という場に潜在する死の匂いを顕在化させている点にこの映画の魅力がある。断っておけば、ここでいう死の匂いとは濃厚なものではなく、限りなく薄く軽いものだ。そこには何の意味もない。殺す理由も殺される理由も、大してあるわけではない。死は無意味なのだ。だから実のところ、サイコ・キラーが同じサイコ・キラーの友人と殺人を行っていたエピソードや、その友人(やはり主人公に殺された)が、悪夢となって主人公に憑りつき、主人公の銃と一体化する設定などは特に必要なかったのではないかと思う。主人公と関係を持った女子生徒が落下するシーンがスローになる部分や、ところどころにおりこまれるブラック・ジョークも同様だが、個人的に東大=to dieにはしてやられた。そしてエンディングテーマはELPの「悪の教典」であって欲しかった。