2013/05/10

死と学校の関係 映画『悪の教典』









  サイコ・キラーの教師が生徒を次々に殺していく。それだけといえばそれだけの映画である。B級映画といえばこの上なくB級映画だが、その即物的な在り方にこの映画の魅力がある。
 学校とは、無限ではないにしても限りなく引き伸ばされた、あるいは果てしなく微文化された、通過儀礼の場である。通過儀礼とは参加者が仮の死を体験することで大人になる儀式だとすれば、学校と死が結びつくのは必然的である。たとえば学校の怪談、学校の七不思議のように、学校には何かしら死の匂いが漂っている。とすれば通過儀礼の執行者たるサイコ・キラーが学校に紛れ込むのも当然のことである。小説でも映画でも主人公のサイコ・キラーが何故、教師になったのか、いまいち説明されきれていないが、こう考えればそれなりに納得がいく。そしてクラスの生徒全員を殺し終えた(と思った)後、「卒業おめでとう!」と主人公が言うのも当然のことなのである。何故なら、通過儀礼の先に待っているのは大人になることか、さもなくば死なのだから。
 小説も魅力的だったが、映画の場合、限られた時間の枠の中で如何にこの学校と死の関係を表現するかにその強度はかかっている。そしてそれはかなりの程度成功している。小説にあった細部はかなり省かれ、ストーリーや人間関係も単純化されているが、そんなことは問題ではない。細部を知りたい人は原作を読めばいいのだから。とにかくただ単に人が殺されていく。それによって学校という場に潜在する死の匂いを顕在化させている点にこの映画の魅力がある。断っておけば、ここでいう死の匂いとは濃厚なものではなく、限りなく薄く軽いものだ。そこには何の意味もない。殺す理由も殺される理由も、大してあるわけではない。死は無意味なのだ。だから実のところ、サイコ・キラーが同じサイコ・キラーの友人と殺人を行っていたエピソードや、その友人(やはり主人公に殺された)が、悪夢となって主人公に憑りつき、主人公の銃と一体化する設定などは特に必要なかったのではないかと思う。主人公と関係を持った女子生徒が落下するシーンがスローになる部分や、ところどころにおりこまれるブラック・ジョークも同様だが、個人的に東大=to dieにはしてやられた。そしてエンディングテーマはELPの「悪の教典」であって欲しかった。

0 件のコメント:

コメントを投稿